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Great Urban Places in Asia 139 - 神楽坂 Kagurazaka 5 [アジアの都市探訪]

【路地界隈の建物構成と変遷】
 神楽坂通りはおおむね尾根道であり、そこから南北両側、緩やかな斜面を少々下ったあたりの路地界隈を中心に花柳界が形成された。1937(昭和12)年、花柳界の隆盛期には、神楽坂通り北側の神楽坂三、四丁目の大半は待合、料理屋、置屋など花柳界関係のもので、建物は全て木造低層建築であった。これらの建物は1945(昭和20)年の戦災で全て焼失した。

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1937年(昭和12年)の神楽坂三、四丁目。(資料 火災保険地図)

 戦後は焼け野原状態から徐々に復興し、昭和30~40年代には高度経済成長に伴い花柳界も繁栄期を迎える。一方1968(昭和43)年、都市計画法が施行され神楽坂は防火地域に指定された。そのため従来の木造建築はそれ以降建築ができなくなった。その後徐々に建物更新が進み、2012(平成24)年においては、神楽坂通りなど表通りに面する建物は全て、路地界隈においても相当数がRC造など耐火建築物となり、かつての面影を残す区域はごく一部となった。

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2012年時点の神楽坂三、四丁目地区
多くの建物が非木造・耐火建築物として建て替えられた。大規模建築は少ない。

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Great Urban Places in Asia 138 - 神楽坂 Kagurazaka 4 [アジアの都市探訪]

神楽坂の都市・建築形態 【道路・路地】
 神楽坂は牛込台地の先端に位置し、起伏が激しい地形の上に街路や路地が通る。この地域には古くからの町名が残されており、ひとつひとつのみちや坂に名前があり、その名前とともに場のイメージがある。「神楽坂」はまちの中心にある通りの名称であり、一部の町丁目名であり、まち全体の呼び名でもある。

神楽坂街路網図.jpg
神楽坂付近の地形と主な通り、路地と町名
(標高はNPO粋なまちづくり倶楽部の資料より作成)

【神楽坂通り沿道の建築形態】
 神楽坂通りに沿って、間口が小さく奥行きの深い建築が並ぶ。この形態はもともと古今東西の商店街に共通であったが、街が近代化され自動車社会になった以降は大きく崩れ、大きな建物が建ち大きなセットバックが取られることが多くなった。神楽坂では伝統的な地割と建築配置の形状がまちづくり協定(後述)などによって守られ、店がみちに連続して開き、みちを歩いていて店の様子がよくわかる。みちと店が親密な関係を保っている。建築の高さは2~6階程度の中低層が多い。

神楽坂建築投影図.jpg
神楽坂通り沿道の建物平面投影図
狭い間口の建物が、ほぼセットバックなし、隙間なしで並んでいることがわかる

(続く)
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Great Urban Places in Asia 137 - 神楽坂 Kagurazaka 4 [アジアの都市探訪]

伝統的路地界隈 3

見番.jpg
 熱海湯階段を上がり、また折れるとこの建物「東京神楽坂組合」に至る。花柳界の見番で、1階は事務所、2階は芸者さんのお稽古場になっており、よく唄や三味線、お琴の音が聞こえる。

 神楽坂の路地の全てが、伝統的な雰囲気を持っているわけではない。庶民的な路地、落ち着いた飲食店が並ぶ路地など様々である。この路地は小栗横丁と呼ばれ、かつて水路がこの両側を流れていたためか、いまでもしっとりとした落ち着きが感じられる。小料理屋やレストラン、住宅が並ぶ。

小栗横丁.jpg
 小栗横丁界隈には八百屋や牛乳屋、豆腐屋など、人々の暮らしを支える店も残っており、銭湯熱海湯もこの通り沿いにある。戦後復興期に建てられた住宅の多くには内風呂はなく、銭湯は生活に必要不可欠であった。今では生活事情は様変わりしているが、地域の人たちの寛ぎやコミュニケーションの場であることは変わらない。近年では、来訪者も体験できるパブリックプレイスという新たな役割も担っている。

(続く)
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Great Urban Places in Asia 136 - 神楽坂 Kagurazaka 4 [アジアの都市探訪]

伝統的路地界隈 2

兵庫横丁.jpg
神楽坂通り中心部にある毘沙門天前から出て、兵庫横丁に至る路地

熱海湯階段.jpg
熱海湯階段。銭湯熱海湯の横から入り、折れて階段となる。沿道の建築様式は多様だが、長年人の手が入り守られてきた路地、それを囲む石組、植栽、板塀などによってしっとりとした一体感が保たれている。

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Great Urban Places in Asia 135 - 神楽坂 Kagurazaka 3 [アジアの都市探訪]

伝統的路地界隈
 神楽坂通りの中央部から1回、2回とみちを曲がると、幅は狭くピンコロ石畳仕上げの路地に入る。江戸時代中後期から武家敷地内の家屋が町人に賃貸されたりするようになり、それらを結ぶ通路などが路地となっていった。時代の変遷にともなって路地の位置や形状は変化しているが、江戸時代から今まで脈々と続く神楽坂の文化的、空間的基盤となっている。
 神楽坂の花柳界はこの路地界隈を中心に明治以降に発展したものである。表通りを曲がり路地の奥に入るにしたがって、パブリックから次第にプライベートに遷移するという社会的空間的構造を持っていた。神楽坂の路地は裏路地ではなく、料亭がお客様をお迎えする「おもて」である。路地は今日に至るまで全て私道であり、花柳界や住民、新しい店舗の人たちによって水が打たれ、掃除され、手を入れられている。 
 現在では料亭や芸者さんの数はずいぶん少なくなってしまったが、それでも花柳界の文化や作法は神楽坂に根付いて受け継がれ、尊重されている。車の入らない路地は東京都心において貴重で静寂な空間で、時間がゆったりと流れている。神楽坂は戦災を受けたため建物はすべて戦後のものだが、この路地が空間と時間、人間をつなぎ、歩く人をして「江戸情緒を感じるまち」と言わしめる。神楽坂のイメージとしては「和」が大きいが、路地の奥にもフレンチやイタリアンなど多様なレストランやバーなどがあり、それらが伝統的な和と調和しているところが、神楽坂の魅力である。

wakana.jpg 
神楽坂らしい路地のひとつ、兵庫横丁。ピンコロ石敷の路地が折れて奥に続く。
黒板塀の奥に木造建築が連なり、緑が塀越しに見える。
正面左は旅館和可菜で、作家が逗留して仕事をすることで知られた旅館である。

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Great Urban Places in Asia 134 - 東京・神楽坂 Kagurazaka 2 [アジアの都市探訪]

神楽坂通り(続き)

毘沙門天善国寺。200年以上前から神楽坂の中心に座し、人々の信仰、
様々な祭事や文化活動の拠点となっている。

毘沙門天.jpg


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Great Urban Places in Asia 133 - 東京・神楽坂 Kagurazaka 1 [アジアの都市探訪]

神楽坂
神楽坂は東京都心部、牛込台地の先端に位置し、複雑な地形に上に長短緩急の坂道が通る。江戸時代に主に武家屋敷及び寺町としての整備が行われ、それ以前からあった町人地と混在しながら発展した。明治時代になると花柳界が勃興し昭和初期には隆盛期を向かえ、このまちだけで料亭150軒、600~700人の芸者衆がいたという。花柳界とはごく概略的に言えば待合、料理屋、置屋があり(待合と料理屋が一体となったものが料亭)、芸者衆がいる街で、花街とも呼ばれ社会的・空間的な意味を持つ。
アジア太平洋戦争末期の東京大空襲で街は壊滅したが、戦後の復興に伴って花柳界や商店街も再興し、昭和中期には第二の隆盛期を迎えた。その後は社会経済環境の変化に追従せず低迷した時期があったが、1990年代ごろからこの街の地形や路地、歴史、文化を活かしたまちづくりの取り組みが次第に活発になり、今では多様な人たちがこのまちでの買い物、飲食、伝統芸能、そして伝統的な路地のある界隈を楽しみ、集まるようになっている。神楽坂通りは一見特に変哲のない商店街のようであるが、よく見れば東京の最先端を行くまちのひとつである。

神楽坂通り
 神楽坂通りは、神楽坂の背骨を通るメインストリートである。江戸時代、三代将軍家光が重臣酒井若狭守の屋敷に下る(地形的には上る)御成道、もしくは若狭守が江戸城に登城する道として整備されたもので、18世紀後半に神楽坂通り中央部に毘沙門天善国寺が移転してきた以降は、定期的に行われる縁日の通りとしても賑わった。
明治中後期以降は商店街として発展し、今でも江戸時代の街割りを基盤とする、間口が狭く奥行きが深い土地に建つ商店街が健在で、物販店は老舗の和装小物店、和菓子店からコンビニまで、飲食店は和食、フレンチ、中華、各種飲み屋からバー、カフェまで、さらにゲームセンターなど様々な店舗がほぼセットバック無しで軒を連ねる。近年チェーン店が増加しているが、個人経営、老舗の店も少なくない。その店主や家主たちの多くは店の上の階に住み、24時間このまちで働き、住み、まちづくりの担い手となっている。
神楽坂通りの幅員は10~12メートル、うち車道幅は7メートルほどで、午前と午後は通行方向が違う一方通行である。2車線あるうち1車線分は通行帯、1車線分は沿道商店への物流やタクシー客のため停車帯として利用されている。毎日昼12時から1時までと、日曜日の午後12時~7時は自動車通行止めとなり、人々はけやき並木の坂道のそぞろ歩きをゆったりと楽しんでいる。

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神楽坂通り。人々は思い思いにまちを歩き、お気に入りの場所に向かう。
毎日のお昼1時間と、日曜日午後は歩行者専用のみちになる。

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Great Urban Places in Asia 132 - 渋谷・表参道 Omote-Sando 2 [アジアの都市探訪]

キャットストリート
 かつての渋谷川が暗渠化され、川の流れそのままに湾曲したみちになった。表参道とは直交し、南に下ると渋谷にいたる。幅員は10メートルほどで、沿道には瀟洒で個性的なブティックや雑貨店、飲食店などが並び、ヒューマンスケールな街並みとなっている。キャットストリート周辺の一帯には路地網があり、新旧・小規模の建築が立ち並び、感性の高い若者を主なターゲットにしたショップやレストランが集積している。

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キャットストリート。表参道とは異なるヒューマンスケールな街や個性的なショップを好む人も多い

(続く)
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Great Urban Places in Asia 131 - 渋谷~表参道 Omote-Sando 1 [アジアの都市探訪]

表参道
 代々木公園を抜けたところに明治神宮入口があり、そこから青山通りまでの直線路約1キロメートルが明治神宮への主参道すなわち表参道である。全幅約35メートル、歩道は約7-8メートルで、ケヤキ高木の並木道となっており、ブランド店や高級店が連なる。そぞろ歩きする若い女性グループやカップルたちも多く、東京で最も華やいだメインストリートのひとつである。
 歩道の車道側には植樹・植栽帯が設けられ、その縁にはゆるやかにカーブしたレールが2本、座るのにちょうど良い高さに据え付けられている。その木陰には多くの人たちが座り、待ち合わせをしたりスマホをいじったり、アイスクリームを食べたりしながら過ごしている。

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表参道  多くの人々が木陰のレールに座り、それぞれにこの場での時間楽しんでいる

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Great Urban Places in Asia 130 - 渋谷 Shibuya 3 [アジアの都市探訪]

国立代々木競技場と代々木公園周辺
 渋谷駅から10分ほど北に歩くと、国立代々木競技場に達する。1964年の東京オリンピックを機に建設されたふたつの屋内競技場は、丹下健三氏の数あるモダニズム建築のなかでも最高峰の部類であろう。建設後50年を経た今でも、挑戦的な構造計画と精巧な施工技術によって造られた、シンプルで力強いフォルムはすがすがしい。
競技場の北側に隣接して代々木公園がある。この一帯、戦前は練兵場であり、戦後は米軍住宅地ワシントンハイツとなった。64年東京オリンピックの際この一部が選手村として整備され、その後公園やスポーツ施設として開放された。
公園では年間通して大小様々なイベントが行われている。広々とした緑地広場や木立は心地よく、ジョギングしたり散策したり寝そべったり、集会や恋人同士の語らいなど様々なアクティビティが見られる。公園を抜けて北側には明治神宮の森がある。90年ほど前に造営された人工林は73ヘクタールほどもあり、代々木公園と相まって、東京都心部で最大級の緑地となっている。

yoyogi stadium.jpg 
代々木第二体育館前の、広々とした歩行者プロムナード。
木立の間に体育館の流線的フォルムが見える。このみちを直進すると代々木公園。

(続く)
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